月夜のお話

レースを透る白光に

誘われ空を見上げれば

 

変わりゆく身の僕の目に

いつもと同じ月が見え

 

 死すべき僕はあと何度

冷めた光に身を浸せるか

大学生が勉強しなくなるわけ

大学生であるからといって、教養があるわけではない。

教養は、色々なことを実際経験したり、たくさんの本を読んだりして(それも経験の一つの形なのだろうが。)、自分の頭で考えたりして、身につくものだと思う。

 

手っ取り早いのは本を読むことだろう。

例えばアメリカのことを知りたくて、アメリカに旅行すれば、生のアメリカを感じることはできるかもしれない。

ただ、深い知識、まさに本で読んだだけではわからない知識を得られるとしても、それには時間がかかる。

多分、アメリカの歴史を書いた本や、旅行ガイドブックを1冊読んだ方が、アメリカの知識の量を得ることは可能だと思う。

(本も読んで旅行もして、というのが一番楽しくて効率も良いのだろうけど。)

 

でも、最近の大学生はとかく本を読まない。

仕事柄、大学を卒業したての社会人と接する機会に恵まれているが、彼らの本の読まなさには驚きを隠せない。

そのため効率よく知識を呑みこむことができず、仕事にも影響が及んでいるように思える。

 

本を読むのに一番いい時期は大学在学時だと思う。

義務教育を終えて、一通りの本は読むことができるし、行動力も身についているので自分から色々な経験を積むこともできる。

ただ、いかんせん高校生は大学受験の勉強で忙しかったり、まだ義務教育の延長のような雰囲気もあるので、本を読むには足りない知識やスキルがある。

だから、大学在学時、特に低学年のときが、ベストだと思う。

 

でもその頃に本を読まない大学生は多い。

大学生の本分は飲み会やサークル活動、あるいは退廃だと考えているようである。

飲み会やサークル活動、あるいは退廃は、大学生でなくてもできるので、大学生の本分ではそもそもない。

大学とはやはり勉強するところで、学問(自分で問を立てて、答えを探す行為)ができるところという本質は揺るがない。

就職のための踏み台が本質であるとの誤解もあるかもしれないが、

大卒であることが就職のための踏み台になることの前提として、大卒者に勉強・学問の経験があることが隠れているはずだ。

(したがって、大学生が勉強していない、高卒とさほど学力が変わらないということになれば、就職先の企業からしてみれば、高卒を雇うのとあまり変わらない態度で接するだろう。)

 

しかし、大学の本質がなんであれ、勉強しない大学生は消えない。

1つには大学がそれを容認していることもあろう。

学費さえ支払ってくれれば文句は言わないということ。

もう1つには、単位認定、卒業認定の甘さもあろう。

 

大学としては教育に失敗した者に退学と留年以外の選択肢を与えるべきではない。

それ自体が学問していない大卒者という矛盾した存在を社会に生み出し、社会から大学に対する信用を失わせるものとなるからだ。

 

 

映画「戦場のピアニスト」

映画「戦場のピアニスト」をついこの間、視聴した。

小説が原作で、第二次世界大戦中のポーランドのユダヤ人ピアニストが主人公。

 

この映画の印象深いところは、家族の「覚悟」だった。

収容所へと運ばれていく中、主人公の父親がなけなしの金をはたいて、キャラメルをたった一粒買う。

そして、そのキャラメルを小さく切り分けて、家族で一緒に食べる。

まさしく家族でともに食事をするのは、それが最後になる。

そうだとわかっていたからこそ、有り金をはたいてキャラメルを買ったのだ。

 

自分がおそらく無事では済まなくなることを知っている。

かなり高い確率で、理由も分からず、無意味に殺されるという結末を突き付けられている。

このような状況下で、生きていること自体の無意味さに呆然とするのが普通だと思う。

しかし、この家族、特に父親は、別れの儀式を行うことによって、幕引きという意味を与えようとする。

 

意味を受け取るのではなく、意味を生み出す。

極限の状況の中で。

 

そこにとんでもない悲しい美しさがあるのだと思う。

分けること、結びつけること、知識、そして他者からの評価

頭がいいなと思う人は、よく整理された話し方をする。

物事をきちんと切り分けて、また、物事を結びつけて、人に伝えることができる。

 

物事がきちんと切り分けられていないと、何を話しているのかいまいちわからなくなる。

大事な部分も大事でない部分もまざった発言になってしまうし、

原則や例外がごちゃごちゃして結局のところ結論が見えない発言になる。

物事を切り分けるというのは、どのくらい語彙があるかにも関わってきて、語彙が少ない人はやっぱり物事を切り分けることはできない。

分けることができない発言は、何を言っているか「分からない」発言だ。

 

反面、物事が結び付けられていないと、会話にあまり意味がなくなる。

会話に意味がないと、聞いていてやっぱり何を話しているのかわからないし。

あるいは物事がよくある結びつきで話されると、同じような会話の繰り返しになる。

 

 

監視社会で困らないのか。

テロとの戦いがなんだかんだと威勢よく語られている時代。

防犯カメラを増やそう、とか刑事訴訟法を改正して通信傍受の範囲を拡大するとかしないとか、まあ色々と監視の目を強めようという動きはある。

 

こういった議論で良く出される主張の一つが、

「監視されて困るのって、悪いことしてる人だけでしょ」

なんて主張だ。

 

悪いことしている人が、監視されて困るのは確かにそうかもしれない。

ただ、良いことをしている人は、監視されて困らないのか、というと決してそうでもないだろう。

そもそも監視対象者になる「悪いこと」をしている人の「悪さ」を決める基準が、市民の健全な常識とかではなく、権力者にとって都合が良いか悪いかだったりすることも考えられる。

あなたが良かれと思ってやっていることでも、権力者にとって不都合であれば、監視対象になる可能性はある。

 

それでもこういう人も出てくるだろう。

「監視されるだけで、捕まるわけでもないし、見られて困るようなことをしなければ、問題ないでしょ」

 

この主張もまぁわからないでもない。

ただ、やはり困ることをするかどうかは、権力者の都合であって、見られている人が判断する事柄ではない。

言い換えれば、権力者が監視対象者を監視するだけで済むか、は監視対象者にも権力者以外の誰にもわからないということだ。

まさかとは思うが「権力者は困るようなことをしないだろう」という前提があるとすれば、少し想像力を働かせてほしいし、想像力が働かないなら過去の歴史を知ってほしいところだ。

憲法9条、9条信者、9条改正

憲法9条は、日本国憲法の中でも最も賛美され、また最も批判の強い条文だ。

 

9条の条文をもう一度読んでみよう。

第1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

とある。

 

第1項で大事なのは、「国際紛争を解決する手段として」、「戦争」、「武力による威嚇」、「武力の行使」を放棄するということだ。

裏返せば、「戦争」、「武力による威嚇」、「武力の行使」以外の手段は、「国際紛争を解決する手段として」用いても良いということになる。

 

ネトウヨが良くブサヨを馬鹿にして用いる言葉に「9条信者」という言葉がある。

9条がある限り日本は武力攻撃をされないと信じている脳内がお花畑の連中のことを指すといわれている。

確かにこの批判はもっともだ。

中国の銃弾は、ロシアの銃弾は、9条が書かれた六法全書を貫通して、日本国民を地に染めることができる。

 

他方、だから9条がある限り、日本は無防備であって、常に受け身で、国際社会で負け犬のように存在していなければならない、というネトウヨの嘆きは、少し違うような気がする。

上手くは言えないが、諦めが早くありませんか……と。

 

日本国憲法は、国家に、そして主権者たる国民に、戦争以外で勝て、と言っているのだ。

暴力で解決する以外の方法を考えなさいよと。

一部のネトウヨの発言は、テストを前にして、

微分積分の問題は難しくて解けないから、問題自体を単純な足し算の問題に変えろ」

と言っているようで、考え方としてはありうるが、幼稚な感じも見受けられる。

 

日本国憲法は実情はどうあれ、日本国民が決意した目標・理想でもある。

特に戦争放棄は、先の大戦、それに連なる多くの戦争のもたらした人的物的犠牲を思えば、この目標・理想は誰がどう見ても理由のあるものだ。

この貧しい国に持続的な戦争遂行能力などない。

 

ネトウヨが言うような「普通の国」は所詮は普通の国であって、栄光も名誉もない。

理想を掲げ、理想に向けて努力するからこそ、栄光と名誉に輝く国になる。

仮に9条改正を主張するのであれば、戦争放棄よりもより素晴らしい目標・理想があることを示さなければならないだろう。

 

他方、護憲派と呼ばれる人々も、9条があるからどうのとか、世界遺産とかわけのわからんことを言っている暇があれば、戦争以外で日本が優位に立てる方法を具体的に示す必要がある。

それは、泥臭かったり、場合によっては汚い方法かもしれない。

日本に喧嘩を売ってきそうな仮想敵国のトップに多額の賄賂を渡したり、

相手の国を分裂させたり、経済制裁をしたり……。

それでも、人が人を殺し合う戦争よりはましでしょ、という乾いたスタンスを持つ必要がある。

 

要は、右も左も頭を使ってほしい、ということだ。

自分が言えた口ではないかもしれんが。

 

自分勝手ということ

昨日、自分が小学生のころの話をした。

今思えば、ずいぶん自分勝手だったと思う。

 

自分勝手というのは、他人が自分の都合で動いてくれると思い込んでいる状態だと思う。

 

他人が想定外のことをする。

自分はこうしてほしかったのに、あの人はこうしてくれない。

あるいは、自分はこうだと思うから、あの人もこう思っているに違いない。

そこで腹を立てるのが自分勝手な人だ。

 

こういうことが何度もあったり、あるいは自分が他人の都合で叱られたり、罰されたりして、いつからか他人が自分の都合で動いてくれないことを学ぶ。

 あの人と自分は違う人なんだよなぁという諦めに近い気持ちを得られるようになる。

 

しつけとか矯正とかの本質も、自分の思うままにならないよう、言動を制限することにあると思う。

これって、世の中は自分の思うようにはなりませんよ、むしろ世の中があなたを思うままにしますよ、ってことを示すためにあるのだと思う。

 

反面、いつも顔色を窺うような子どもとか、他人の都合でしか動けない子どもってのもいる。

そうすると、だんだん自分はこうしたいって気持ちもなくなってくる。

 

どちらの子供も、自分の内心か、他人の内心かの違いはあるけど、想像力を養う機会が奪われるんだろうなと思う。

それに、他人の内心がわからない自分勝手な人はもちろん、自分の内心がわからない人も、多分想像力が欠如している以上、すごくメンドクサイ人だなと思われるような気がする。